私の子供時代、戦争の思い出。
戦後80年ですか〜〜
私4・5歳のころまで、東京の神田に住んでいました。
私自信は怖さ、苦しさは感じませんでしたが
両親は辛い時代だったと、今 感じます。
戦争が激しさを増し、空襲警報発令の
「ウォーン ウォーン」と鳴り響く中、
私たち家族は夢中で主婦の友会館の地下に非難。
(たぶん『主婦の友』、もしかしたら『家の光』)
父が地下の小窓を指差し、
「あれがB29だよ」と教えてくれた。
見上げても窓には青空が見えるだけで
私には見えませんでした。
あまり怖さは感じず、
父のゲートルの足下しか記憶がない。
当時兵隊検査があり、父はひ弱な体だったので
赤紙(招集令状)が来なかった。
そのため兵隊にならず
私達にとっては、ありがたかった。
だんだん、戦争が激しくなり
父方の親戚に疎開。
父だけが家に残ったが、近くに落ちた焼夷弾によって
家が焼かれ始め、バケツで消していたそうです。
夢中で消したがとうとう諦め、
家が焼かれるのを
途方にくれながら見つめていたそうです。
その後、父も疎開先に合流。
今思えば、東京大空襲の前に
家が焼けたので、父が命拾いして本当に良かった。
そして、両親・祖母・子供3人の
6人でやっかいになる疎開先では
私と同い年、同じ名前の従姉妹がいました。
ある日、2人で戦争ごっこをしていた。
私、日本人。あなた、アメリカ人と。
チャンバラごっこをしていたら、伯父が
「なんでお前が日本人で
世話している家の子がアメリカ人なんだ〜〜」
と、怒鳴られた。
母と私で恐縮して
踏ん反り返る、伯父に対し
「申し訳ありませんでした」
と正座し、ペコペコとあやまり
つらい思いをさせてしまった。
子供ながら、両親が肩身の狭い思いをしているのを
おぼろげに感じ取り、
今でもそのことはよく覚えています。
母は看護婦、保健婦、助産師の
免許を持っていたので疎開先の役場に勤めていて
そこからの紹介で、現在の私の実家に越す事となる。
父は、手に職がなく
のんびり絵を描いており、その絵が県展で入選した。
音楽な好きな父は私に歌を教えてくれ、
それが現在の仕事に役立っている。
父と母に「ありがとう」です。
78歳年まで働けたのは、父母のおかげと、感謝。
ホントはもっと働きたかったけどね・・・・
私4・5歳のころまで、東京の神田に住んでいました。
私自信は怖さ、苦しさは感じませんでしたが
両親は辛い時代だったと、今 感じます。
戦争が激しさを増し、空襲警報発令の
「ウォーン ウォーン」と鳴り響く中、
私たち家族は夢中で主婦の友会館の地下に非難。
(たぶん『主婦の友』、もしかしたら『家の光』)
父が地下の小窓を指差し、
「あれがB29だよ」と教えてくれた。
見上げても窓には青空が見えるだけで
私には見えませんでした。
あまり怖さは感じず、
父のゲートルの足下しか記憶がない。
当時兵隊検査があり、父はひ弱な体だったので
赤紙(招集令状)が来なかった。
そのため兵隊にならず
私達にとっては、ありがたかった。
だんだん、戦争が激しくなり
父方の親戚に疎開。
父だけが家に残ったが、近くに落ちた焼夷弾によって
家が焼かれ始め、バケツで消していたそうです。
夢中で消したがとうとう諦め、
家が焼かれるのを
途方にくれながら見つめていたそうです。
その後、父も疎開先に合流。
今思えば、東京大空襲の前に
家が焼けたので、父が命拾いして本当に良かった。
そして、両親・祖母・子供3人の
6人でやっかいになる疎開先では
私と同い年、同じ名前の従姉妹がいました。
ある日、2人で戦争ごっこをしていた。
私、日本人。あなた、アメリカ人と。
チャンバラごっこをしていたら、伯父が
「なんでお前が日本人で
世話している家の子がアメリカ人なんだ〜〜」
と、怒鳴られた。
母と私で恐縮して
踏ん反り返る、伯父に対し
「申し訳ありませんでした」
と正座し、ペコペコとあやまり
つらい思いをさせてしまった。
子供ながら、両親が肩身の狭い思いをしているのを
おぼろげに感じ取り、
今でもそのことはよく覚えています。
母は看護婦、保健婦、助産師の
免許を持っていたので疎開先の役場に勤めていて
そこからの紹介で、現在の私の実家に越す事となる。
父は、手に職がなく
のんびり絵を描いており、その絵が県展で入選した。
音楽な好きな父は私に歌を教えてくれ、
それが現在の仕事に役立っている。
父と母に「ありがとう」です。
78歳年まで働けたのは、父母のおかげと、感謝。
ホントはもっと働きたかったけどね・・・・